河童ですから

大分県の河童をめざす”てらかっぱ”のブログ。https://valu.is/terakappa

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真田幸村(信繁)を討ち取った松平忠直の最後と真田幸村愛馬の墓。大分県で真田丸ゆかりの地を探訪。

ども、てらかっぱです。

 

真田丸で話題の真田幸村。

大坂の陣で彼を討ち取ったのは誰だかご存知ですか?

 

1.徳川方の武将

2.豊臣方の武将

3.名もない百姓

 

答えは1

松平忠直

 

誰?

って思いませんか。

松平姓なので徳川家の縁者かなくらいは予想がつくかな。

初代徳川家康の孫で二代秀忠の甥で三代家光の従兄弟です。

 

浄土宗鎮西派浄土寺の松平忠直公廟

大分市から別府市に向かう別大国道の入口近く、浄土宗鎮西派浄土寺に松平忠直公廟があります。

 

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史跡松平忠直公廟

徳川家康の孫、越前75万石の領主。松平忠直公、(一伯と号す)

宗家に逆くところあり、元和9年(1622)豊後の国、萩原後に配流。

後、津守に館を移して、憂悶の日々を送るも晩年、当山第十世信誉上人の感化により弥陀信仰の求道一筋の光明生活に入る。

慶安3年(1650)56歳を以って死去。当山に葬らる。

おお!この文章、配流、入る、葬らる!!で韻を踏んでる!! 

 

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松平忠直は徳川家康の次男結城秀康の長男です。乱心により当時の豊後国今の大分県に流されていたのです。

みなさん知らないかもしれませんが、この人です、大坂の夏の陣で真田幸村を討ち取った人はこの人ですよ。

 

僕も知りませんでした。大河ドラマ真田太平記にはでてませんでしたが、真田丸ではどうでしょうか。

 

松平忠直は大阪の夏の陣の褒美に真田幸村が乗っていた馬を譲り受けます。

しかし、がんばりすぎたのかなぁ。その後、二代将軍徳川秀忠に疎まれてしまうのです。関ヶ原の合戦で真田昌幸に翻弄された秀忠と大坂の陣で真田幸村を討ち取った松平忠直。さて徳川家康の評価はどちらが上だったのでしょうか。

忠直は徳川家康の死後、秀忠の手でとっとと配流されてしまいます。もしかしたら秀忠は忠直に将軍の座を持ってかれるかもしれないと思ったのかもしれません。もしかしたら徳川幕府は真田幸村は生かしておこうと思ったのに、冬の陣の失敗を取り返そうとした忠直がうっかり殺しちゃったのかもしれません。

松平忠直をリストラするために松平忠直の乱心は冤罪の可能性もあるかも。それか武功の割に褒美が少なく、窓際に追いやられて出世の道もなくなったので、やけになったのかもしれない。

 

なんとなく、幕府のために頑張れば頑張るほど源頼朝に疎まれた源義義経や秀忠の息子で家光の弟の徳川忠長の人生にも似てる。そんな人、現代社会にもいっぱいいませんか。

ちなみに私の住む大分県佐伯市には石川数正の息子石川康長が配流されてきている。徳川幕府の配流の場所として重宝されてたんだな大分県。気候もよく、海の幸山の幸も豊富。金はないけど、出世を夢見ずつつましい生活を送るならパラダイスの大分県。昔も今も健在。

大分県大分市津守の碇山に葬られた真田幸村の愛馬

さて、大阪の陣で松平忠直が褒美でもらった真田幸村の愛馬。

墓があると聞いたので浄土寺を後にしてさっそく向かうことにした。

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向かったのは大分で一番低い山と言われる碇山(標高56m)
日本一低い山のベスト10がだいたい標高10m以下なので大分一低い山と言われてもピンとこないね。

 

ここに松平忠直ゆかりの熊野神社がありました。この坂に上に駐車できるところがあるので車のまま上がっちゃっうよ。電車の場合はJR滝尾駅で降りて10分ほど歩く。

 

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もしかして、上の方に見えるアレだろうか?

 

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登り口に真田幸村愛馬の墓と書いてあるのだから間違いない。

 

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あった!!うっすら、真田栗毛埋所と書いてあります。

 

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待ち受けにするとご利益があると聞いたのでスマートフォンの壁紙を変更。

 

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名馬真田栗毛の墓

大阪の陣で、豊臣方の武将として活躍した真田幸村の愛馬の墓です。名前と由緒が判る珍しい馬の墓です。元和元年(1615)5月7日の最終決戦を記録した「大坂夏の陣図屏風」の中央に、幸村が鹿角の兜をかぶって栗毛の馬に跨り松平忠直隊と激突する様子が書かれています。幸村が討死の後、忠直の愛馬となり越前(福井)で過ごしたのち、元和9年配流の時豊後に伴われて来ました。津守館で没し忠直卿(一伯公)によって懇ろに葬られました。

松平忠直がもらいうけた馬は彼が移動する先々に連れて行かれたんですね。よっぽど気にいっていたのだと思います。もしくは「俺は真田幸村を討ち取ったんだぜ!ほらこれが証拠」といってみせて歩いたのでしょうか。

デジカメもない時代、自分の武功を証明するためには物証を持ち歩く必要があったのかもしれません。

SNSのない時代です。江戸時代初期の豊後の国に真田幸村を知っている人がどれだけいたでしょうか。

晩年は武将というより、仏僧として民衆に慕われていたようです。

 

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真田幸村の愛馬は今、真田の土地にも似た風景を見下ろす山の上に葬られている。

 

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その横には、凛々しい真田信繁が座ってるぅぅぅ。www 

大河ドラマ黒田官兵衛の時に続いて仕事が早いぜ大分県民。

 

「黒田官兵衛資料館・黒田官兵衛みやげ館」

 

真田幸村ゆかりの地を巡る弾丸ツアーの方々、ハカマイラーの方々、大分にぜひお越しください。

 

松平忠直公廟のある浄土寺のマップ

真田幸村愛馬の墓がある碇山公園のマップ

 

 てらかっぱってどんな人?

terakappa.hateblo.jp

てらかっぱのVALU 

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